大和物語147「生田川」その2

大和物語147「生田川」その2

 伝説的な物語の部分が終わって、それを執筆者時代の人々が、和歌にして読み合うという歌会的な中間部分。

 亡くなった三人が和歌を詠み合いながら、後半へ至るというおとぎ話めいたエピソードを、結果として現実に返したような情景の移行で、これほど冒険的というか、前衛的な執筆方針は、むしろ時代から遊離しているくらいの切れを見せているくらいに思われます。

 現代の詠み手に委ねられた和歌の流れを眺めると、はじめの三首は水に飛び込んだ際の和歌で、抜けた女性のたましいを、男二人が求めるというものになっています。四首目の「つかのまも」から六首目の「あふことの」までは、たましいと出会った際に、男が「一緒に居ようと約束しました」といい、もう一人が「思いを比べようとしたが、勝敗も無くこうして果てました」と告げるもので、時系列の推移が意識されているようです。

 また彼らの和歌は同時に、前半の物語を改めて説明したものにもなっていて、女性の和歌も生きていた頃の思い、それから今の思いを総括して「あふことの」の和歌を詠んでいます。いわば生きていた頃の自分の和歌を、改めて詠んで見せたような印象で、別にフォーカスが生前の状況へ舞いもどっている訳ではありません。

 最後の四首は、いわば魂だけとなった三人の心情を表明していて、いわば物語内での今の心情を歌ったもの。ただ「身を投げて」の女の和歌は、生前の和歌へ戻った印象からあらためて、飛び込んだ際の和歌を表明する印象で、歌会の最初の和歌群と響き合うものがあるようです。

 この最後の部分で一方の男は「選ばれなくても一緒にいられれば」(最後の和歌)と詠い、もう一方は「一緒にいるのはうれしいがどうして私を選ばなかったのか」と詠い、その心情に食い違いが見られることが、結局はたましいだけになっても、穏やかに三人並んでは過ごせず、血みどろの後半部へと連なっていく伏線にもなっています。

 このように周到に配置された和歌群は、なるほど実際あった歌会などから着想を得たものだとしても、完全に物語のために再構成されたもので、またその歌会が現実とリンクしているからこそ、この部分の情景の移行が、生きていると言えるでしょう。そのリンクも仮のことには過ぎませんから、歌会の後半部分では詠み手が消え失せて、いつの間にか例の男女が、自ら詠み合っているような様相になって、後半部分を導き出す。これほど緻密に計算された、和歌と物語の混合物は、時代を超越して驚異的です。

現代語訳

 このような事が昔あったのを、すべて絵に描いて、今は亡き后の宮(きさいのみや)[宇多天皇の皇后、藤原温子(おんし・よしこ)(872-907)]にある人が贈った時に、この昔話をもとに、皆が集まって、亡くなった男女に代わって、和歌を詠みあった。まず伊勢(いせ)の御息所[女流歌人。三十六歌仙の一人。大和物語001段に登場する]が、男の心になって、

かげとのみ
   水のしたにて あひ見れど
  魂(たま)なきからは かひなかりけり


[ただ姿ばかりは
    水の底で 互いに見たけれど
   たましいのない亡骸では それも甲斐のないことでした]

 女に成り代わって、女一の皇女[均子(きんし・ひとしきこ)内親王]

かぎりなく
   深くしづめる わが魂(たま)は
 浮きたる人に 見えむものかは


[限りなく
   深いところまで沈んでしまった わたしの心は
  はたして思いの浅い人に 見えることがあるでしょうか]


[前の和歌を踏まえて、抜け落ちたたましいは、限りなく水の深いところまで、愁いに沈んで、浮いている人には見つけられるでしょうか。また、思いの浅い人には、同じ領域までこれるでしょうか。といった意味。つまりはじめの和歌は、男が飛び込んだ女を捕まえた時の和歌で、抜け落ちた女の魂は底の方で、自分の遺体を掴みながらむなしくなる男たちを眺めながら、詠んだような趣向。]

 また后の宮が、(男の心で、)

いづこにか 魂をもとめむ
  わたつみの こゝかしことも
    おもほえなくに


[いったいどこに たましいを求めたら良いのだろう
   広い水のなかの こちらともあちらとも
     思われないのだけれど]


[肉体を離れた女の魂が、深く沈んだ私の心は、水面近くで肉体を掴んでいる人にはもう見えません。同時に、同じくらいの思いでないと、もはや私のところにはたどり着けません。と詠んだのに答えたもの。一連の昔話から、その沈んだ魂の本質は、「憂うつ」などではなく「愛情」の重さや深さと、その憂いであることが悟られる。
 当初、女の和歌は中間にあって前後の別々の男と贈答を交わしつつ、時系列を下るように考えていたが、この歌会の冒頭部分はむしろ、男二人が「魂がない」と空しがって、それに女が答え、また男二人が「どこにいるのだろう」と探し出すという作劇になっている様子。これは、生前の男たちが、まるで同じように愛を示すという流れを継承してもいる。死にながらなお二人は、同じように和歌で思いを表明しているという趣向。
 変にリアルにこだわっているところは、先に飛び込んだ女性の方が魂が抜けて、まだ男たちの魂が肉体に留まっている状態を踏まえているようなところ。]

 続いて兵衛の命婦(ひょうえのみょうぶ)[藤原高経の娘]が、

つかのまも
   もろともにとぞ 契りける
  あふとは人に 見えぬものから


[たとえわずかな間でも
   たとえ塚の中であっても 一緒にいようと
     約束しました
  逢っているとは人には
    たとえ見えないものだとしても]


[男たちが、彼女の魂はどこだろうと詠いながら、その魂を求めて、見いだした時の和歌になる。次の『かちまけも』と共に男の和歌だが、ここで二人の男は分化して、それぞれがそれぞれの和歌を詠んでるように思われる。続いて女の返歌が置かれるが、それは生きている頃の女の和歌に置き換えられる。ただし、フォーカスが移ったというのではなく、生きていた頃の自分の和歌を借りて、一つ前の和歌に答えるような印象。
 ところで、大刀で渡り合う物語後半は、塚(つか)と刀の柄(つか)、つまり握る部分の掛け合わせがあるのだろうか、そうだとするならば、この和歌の「つかのまも」さらに次の和歌の「勝負が付いていない」という意図は、後半への暗示にもなっているのかも知れず。]

 糸所の別当(いとどころのべっとう)[春澄善縄の娘、古今和歌集に一首収める歌人、春澄洽子(はるすみのあまねいこ)]が、

かちまけも
  なくてや果てむ 君により
    思ひくらぶの 山はこゆとも


[勝ち負けも
   無いままに果てるのか あなたのために
  思いを比べるという くらぶ山を越えはしたものの]


[この和歌の趣旨を踏まえると、異質に思われる後半部分の内容が、前半の逸話部分で水鳥を射て勝敗を決するという誓いを、立ててしまった(思いを比べる山は越えてしまった)ものの、勝敗が決さないまま果ててしまったために、必然的に引き起こされた怪奇であるようにも思えてくる。あるいは「生田川」の名称には「生きる」とは別の意図があって、あるいはこの川は誓いを立てる川として知られていて、誓いは果たされなければならないとう伝説や俗信でもあったのだろうか。そうであるならば、水鳥を射るという行為にも、あるいは水鳥そのものにも、特別な意図があるようにも思えてくるが、残念ながらこれもまた、私の領域を越えてしまうようです。]

 生きていた頃の女となって、[ここから和歌の詠み手が消えるのは、フォーカスが歌会から離れ、前半を引き継いだ三人の思いがクローズアップされてくるという方針]

あふことの
   かたみに恋ふる なよ竹の
  たちわづらふと 聞くぞ悲しき


[天秤の棒みたい
   逢うことの一方が恋しいと決められない
  そんな竹の棒が どちらに傾くことも出来ないでいる
    それで選ばれるべき二人も 逢うことが難しいものだから
      いつまでも立ちわずらっている
   そんな話を聞くことは 悲しいことではありませんか]


[おそらく、相手の男たちが煩っているのが悲しいというだけでなく、天秤の両側にいる男二人と、どちらにもなびけない天秤である自分、すべての境遇をひっくるめて、最後に客体化して、そのような話を聞くのは悲しいことではないでしょうか。とまとめたもの。ただ、一連の和歌の中で、この和歌だけが単独の和歌として、結晶化されすぎていて、いにしえの名歌でも持ち出した様子。それがもとの生田川のストーリーと結びついたものかどうかは不明だが、伝承の中でこなれてきたような優れた和歌になっている。]


[ところで「つかのま」に刀の柄(つか)の意図が込められて、次の和歌の「かちまけ」「思ひくらぶ」の戦を暗示するような和歌へといたっているのだとすれば、「なよ竹のたちわづらふ」には、最後の部分の「くれ竹」それから「大刀」の意図が込められているのかも知れない。つまり大刀がわずらっていて、思いをくらべる山を越えても、かちまけが付かないでいるという意図である。]

また、

身を投げて
   あはむと人に 契らねど
  うき身は水に 影をならべつ


[川に身を投げて
    逢おうと約束をした訳ではないけれど
  憂いに満ちた私たちは水の上に浮いて
     姿をならべているのです]


[和歌の前に「また」とだけあるが、和歌の内容から、死んだ後の和歌であることが分るから、「また生きたりしをりの女になりて」ではなく、「また女になりて」の略であると分る。
 ただし丁寧に眺めると、生前の和歌より進んで、飛び込んでまだ肉体が水に浮いて、男たちがそれを掴んで、実際に姿を並べている状況を詠んでいるようで、もうひとつ後の女性の和歌が、「うかりけるわがみなそこ」と詠んでいるのが、たましいだけの現状を詠んだものだとすると、生前の和歌と同様回想的な和歌になっていもいる。
 その状況を踏まえて歌会のはじめの和歌に戻ると、たましいは抜け落ちていて、またいろいろと考えたくなってくるが、いずれにせよ、かなり周到に配備された和歌たちであることが思い知られる。]

 また、もう一人の男になって、

おなじえに
  すむはうれしき なかなれど
    などわれとのみ 契らざりけむ


[おなじ江に、おなじ縁を持って
   こうして(たましいだけとなって)住み続けられるのは
     しあわせな間柄ではあるけれど
  どうして私とだけ
    約束を交わしてくれなかったのでしょうか]


[ここからは、現状の、つまり三つならびの塚となった状態での和歌と言えるか。おなじ「え」には、入り江の意図と、「おなじ縁」の意図が込められているが、わざわざ歌会に「皆絵に書きて」と解説したからには、「おなじ絵」という意図も込められているように思われる。]

女からの返しとして、

うかりける わが水底(みなそこ)を
   おほかたは かゝる契りの
  なからましかば


[憂いに満ちた
   わたしたちの水底よ
  はじめから このような約束など
    なかったならよかったのに]

また一方の男として、

われとのみ 契らずながら
  おなじえに すむはうれしき
    みぎはとぞ思ふ


[私とだけ
   約束を交わしたのではないとしても
     おなじ縁を持って おなじ江に住むのは
  うれしいような水際の この身の上だとは思います]