「心は闇ではないけれど」(自作曲)

前口上(まえこうじょう)

 はじめて眺めると、「ぜんこうじょう」と読んでしまいたくなる幼少期、それも遠くなりました。止めかけのアルコールをわずかに口にすると、たちまちアルコール状態がホメオスタシスとなり、彼のあるいは彼女のいない状態を排除する方向に、体が戻りゆくのはあるいは、生命の神秘なのかも知れませんが……

そんな神秘はいらねえや
  そんな神秘は欲しくないよう

 なんて冗談も軽やかに、たちまち日の出と共に酒を呑むような生活に、舞いもどる蝶の不思議です。

 それはともかく……

 とりあえず「生田川」は昨日楽譜(もどき)が完成。即興頼みの領域もあるとはいえ、「大和物語」最大の楽曲になってしまい、はたしてこれを下手歌に歌いきれるものか、もどかしいくらいです。ただ、年内にこれから離脱しようと思っていた計画は、(いつものことながら)あえなく頓挫して、最後の良岑宗貞が、終わらないような除夜の鐘の気配が濃厚ではあります。

 そうして、いつまでたっても中原中也が歌えないという……

本題?

 人の親の子供を思う気持ちは、いつの世も変わらないとしても、物語としてのこの作品の優れたところは、それが階級社会の昇進などと複雑に絡み合い、自らのこと家のこと娘のことなど、さまざまな悩みが闇へと誘うように、物語の方が的確に和歌をサポートしているからでもあります。それにしても、まるで歌詞みたいに、言葉のリズムを整えながら、最低限必要なことだけを、的確に取りまとめる才能には驚かされます。

 それでその意図に沿うように、
   原文によりそって歌ってみたまでのこと。
  ついでに原文も歌ってみました。

「心は闇ではないけれど」

  原作 よみ人知らず
  翻案作曲 時乃志憐

つつみの中納言の君
  愛する自分の娘を みかどのもとに
 嫁がせて 送りだした はじめての宵に

   みかどは 娘を愛してくれますか
     一人悩みの つのります夕暮に

 みかどに歌を詠んで
   さしあげなさいます

    人の親の
      こころは闇では ないけれど
     子を思う道に 迷う夕暮

みかどは これを読まれて
  娘を呼びまして
    聞かせてさし上げて その後は知らず

大和物語「心は闇にあらねども」

つゝみの中納言の君
   十三のみこの母 御息所(みやすんどころ)を
  うちに たてまつりたまひけるはじめに

    みかどは いかゞおぼしめすらむなど
      いとかしこく 思ひなげきたまひけり

 さてみかどに読みて
   たてまつりたまひける

    人の親の
      こゝろは闇に あらねども
     子を思ふ道に まどひぬるかな

先帝(せんだい) いとあはれに
  おぼしめしたりけり
    御返しありけれど 人え知らず

それにしても

 普通に現代語の歌詞をカラオケで歌うくらいの感性でも十分に、なぜ作者がわざわざ最後の一文を加えたか、その効果については、ちゃんちゃらたやすく、感覚的に理解できるのではないでしょうか。

 もしこれを、「歌語りのなかでは歌の淘汰が」とか「資料にあるとかないとか」なんちゃらおかしい落書きを、加えるような永遠の芋虫が、もし学者などと、平然とのさばるような、読解力の欠落と、感性の乏しさの代名詞を、学究の徒に移し替えたような、がらくたじみた国家がまさかあるとしたら……

 おそらくその国ほど、国学を蔑ろにし続ける、無様な国家は存在しないのかも知れませんね。

 そうしてそれは国学者のせいではなく、総体のなせる技には違いないのですけれども……

もし酔いどれの

 戯言を糾弾して彼を貶めるならば、あなたがたは自らを貶めるのである。(旧約聖書156段にはあらず)

とーにーかーくー

人の親の
こころは闇では ないけれど
子を思う道に 迷う夕暮

人の親の
こゝろは闇に あらねども
子を思ふ道に まどひぬるかな

 当時の字余りは、母音なんちゃらで、一音として成り立つ場合のみとか言いますが、細かいことは置いておいて、当時の和歌とやらの、『百人一首』のような特殊に選ばれたものでない、ひたむきな心情の歌が、どれほど現代語のありきたりの表現で、なされたものであるか、それくらいは感じ取れるのではないでしょうか。そうして……

 それこそが和歌の、いいえ、あらゆる詩の王道で、こね回した言葉のまがたまは、その瞬間、つまり現代の感性の豊かさだけは保証するものの、(あまたの短歌のみすぼらしさ、)次の瞬間にはその虚飾が、たちまちほころびを見せるものには違いありません。そうしてそれは、俳句やら、短歌などを眺めるよりもきっと、名称を表象的に変えて最先端を主張し続けるもの、流行歌の歌詞などを眺めた方が、あるいは芭蕉の唱えた、「不易と流行」の本意を、悟れるくらいなのではないでしょうか。

 それではさようなら。
  今日は脱線が過ぎました。
   つまりは飲んでいるからで……

 彼は飲んでいる時くらいしか、
   思っていることすら、おっかなびっくり、
  口にすることさえ出来ないような有様なのでした。

 人はそれを、
  永遠の卑怯者とののしるようです。

    知ったことかと
      この頃は思わなくもありません。

(読み返すのも面倒なので、一筆書きで掲載します。さよなら。)