『大和物語』へのオマージュ「風待つ頃の桜花」
『大和物語71段』の贈答歌の「人の世」という、心情の普遍化というか、抽象化というか、一般事象化というか、ある種の客体化と主観のバランスも見事なものですけれども、現代語による現代人の作詞となると、またバランスも異なってくるのでしょう。
言葉というのは、ただ文字の羅列が移り変わっていくものではなくて、その羅列のスーパーテーマとして、その瞬間の総体としてのある種の精神状態を、内包しているものなのかも知れませんね。
それでもありきたり、現代よりも現在の圧倒的正当性を邁進する、それゆえに次の刹那には泡沫の消え失せる、今の総体言語社会に依存したような、今様の主観主義でなく、ある種の普遍性と客体を込めたいと思わせるのならば、おそらくそれは、この落書きの元となった『大和物語71段』が詠まれた刹那ではなく、遠い未来までの普遍性を兼ね揃えた、魅力的な詩であることを、保証しているだけのこと……
なるほど、それほどのシンパシーを受けてのものならば、作詞作曲者はあるいは、『大和物語』の作者そのものであって、わたしの仮の名称などは、口に出すのもおこがましいような……そんな2018年の年の瀬です。
それで良いお年をとしたいくらいですけれども、本当は出来ることなら、「大和物語147段『生田川』」まで、掲載してみたいと思ってはいるのですけれども……
風待つころのさくら花
作詞作曲 時乃志憐
あの人が
まだ病室の 窓辺から
眺めていた この街の
さくらの花が
今満ち足りた 春の光に
照らされながら 咲き誇るよう
君はひとり
何を思う 木洩れ日のなか
さみしそうに 口ずさみながら
咲き乱れ
風待つころの さくらの花は
そのひと影の 悲しみにして
慰める言葉さえ
なくてわたしは……
春が来て
花待つころの 悲しみは
二度と逢えない 人のなみだか
おまけ『大和物語71段』
おまけその二
咲き乱れ
風待つころの さくら花
そのひと影の 悲しみにして
春が来て
花待つころの 悲しみは
二度と逢えない 人のなみだか
短歌というか和歌について。
この現代語でさしつかえない和歌は、『大和物語』のいくつもの和歌とおなじくらいの語りのレベルで描かれています。実につまらないものです。けれども、三十一文字(みそひともじ)というのは、本来はカラオケで歌われている歌詞くらいの、語りとこだわりのバランス感覚の上に描かれた、短い詩には過ぎないものです。それを三十一字で言い果せる、頓知やへりくつや、語りを無視した意図や、そうかと思えば、ただの状況を説明しただけで、なんの詩情もない落書きを、こねくり回したあげくに、それを解き明かすことを芸術などとした醜態が、ある閉ざされた蟻の巣のような空間においてだけ、人目にすら付かずに、あふれかえっているとするならば……
あるいは詠み手の数に関わらず、その詩型は総体的な言語社会から遊離した、文芸として以前に、もはやただの言葉の羅列としても機能し得ないような、瀕死の状態にある。と言えるのかも知れませんね。