大和物語147段「生田川」その1
明けましておめでとうございます。
去年のうちに掲載するつもりだった「生田川」も、幾多の困難に打ち負けて、というよりは愚鈍なわたしの精神に打ち負けて、新年の掲載になってしまいました。今年もマイペースで参りましょう。
そんな訳で、今回はフォーカスが歌会に移り変わる前までの、おそらくは伝説の本編にあたる前半部分を掲載します。字幕などは面倒いので、せめてなるべく分りやすく、下に現代語訳を掲載しておきましょう。
「生田川」その1、現代語訳
むかし、津の国[摂津国。兵庫県東部から大阪府北西部にかけて]に住む女があった。それに求婚する男が二人あった。一人はおなじ国に住む男で、姓(しょう)[氏名、名字くらい]は菟原(うばら)といった。もう一人は和泉の国[大阪府南部にあたる]の人だった。姓は血沼(ちぬ)という男だった。
そうして、その男たちは、年齢、顔、容姿、人柄の程度が、まるで同じようであった。「愛情の深い方とこそ結ばれよう」と女は思うが、愛情の程度は、まるで同じようであった。日が暮れれば、二人ともやって来て、贈り物をする時は、まるで同じように贈ってくる。どちらが勝っていると言うことも出来ない。女は思い悩むのだった。
この人たちの愛情が浅いものであれば、どちらにも逢わないことにするのだけれど、こちらの男もあちらの男も、長い月日を家の門のところに来て、あらゆる愛情を示してくれるので、逢わないことにすることも出来なかった。
この男からも、あちらの男からも、同じように贈ってくる物たちは、(相手が決められないので、)受け取ることはなかったが、それでもいろいろ品を変えて、持ってきては立っているのだった。女の親があって、(これを見かねて、)
「このように、見ているのも苦しくなるほど、長い時間を過ごして、それぞれが互いの嘆きを、どうすることも出来ないでいるのも不憫だ。一人と一人が結ばれれば、もう一人の思いは絶えるというのに。[心情はともかく現状の決着は付くので、見ているのも苦しくなるような状況は終わるのにという意味。一方に決めたら、もう一方の思いは絶えるのが道理なのだから、それから逃避すべきではないという、親としての諭す意図も込められている]」
と言うが、女は、
「自分でも分っているけれど、あの人たちの思いがまるで同じ様なので、悩んでしまうのです。それなら、どうしたらいいのでしょう」
と答えるのだったが、その時ちょうど、彼女たちは、生田川(いくたがわ)[兵庫県神戸市を流れる川]のほとりに、テントを張って遊びに来ていた。それで、娘に求婚する男たちを呼び出して、親が言うには、
「どちらも、愛情の程度が同じようであるから、うちの未熟な娘も思い煩ってしまったのです。今日どのような形であれ、どちらかに定めてしまいましょう。一方には遠いところから来てくれる人がいる。もう一方はこの地の人ながら、その懸命な思いは限りなく深い。こちらもそちらも、申し訳ないくらいの愛情です。」
と告げる時、二人は非常に喜ぶのだった。
「お伝えしようと思うことについてですが、(二人で)この川に浮き泳いでいる水鳥を射てください。それをうまく射当てた人に、娘を差し上げましょう」
と言うので、それに従って射る時に、一人は水鳥の頭の方を射貫く。もう一人は尾の方を射貫く。その時、どちらが勝者とも定められないのに、娘は思いわずらって、
すみわびぬ
わが身投げてむ 津の国の
生田の川は 名のみなりけり
[生きるのさえ辛いから
この身を投げてしまおう 津の国の
生きるという名の生田川は
名前ばかりに過ぎなかったのだから]
[どちらかの相手に定めることが出来ない自らの、最後のより所として水鳥を射るという他力本願にすがりついたのに、それすら生きるための方針を示さず、どちらも選ばせないという、わたしを悩みの果てに死に至らしめるこの川。その名称は名前ばかりだったという意味。いわば、射られた水鳥は女性自らを暗示していて、共に射貫かれた相手であるからこそ、女性は死なざるを得なかったのであり、女性の心情は故意にはぐらかされて、ちょっと読むとキャラクターすら存在しないくらいに感じられるが、その心情は丁寧に紐解いていくと、次第に浮かび上がってくる。それが分ると、前半部分が究極的には女性の心情とその死をテーマにして、描かれたものであることが、黄泉のせせらぎの、かすかに聞こえてくるようになる。すると、女性の和歌が置かれている理由も分ってくるというものです。]
娘はそう和歌を詠んで、このテントは川に臨んで設けられていたので、ざぶりと飛び込んでしまった。親が慌て騒いで、大声を上げるときに、この求婚していた男二人も、同じところに飛び込んだ。一人は娘の足を掴まえて、もう一人は手を掴まえて、そのまま死んでしまった。
その時、親はたいへん騒いで、死体を取り上げて、大声で泣きながら埋葬をするのだった。男たちの親もやって来た。この娘の墓の傍らに、やはり墓を作って埋葬する時に、津の国の男の親が言うには、
「おなじ国の我が息子をこそ、おなじ所に埋葬すべきだ。異なる国の人が、どうしてこの国の土を穢して良いものか」
といって埋葬を妨げる時に、和泉の男の親は、和泉の国の土を舟で運んできて、ここに持ち運んで、その土によってついに埋葬を済ませてしまうのだった。だから女の墓を真ん中にして、左と右にそれぞれ、男の墓は今でもあるという。