日本茶の落書
九州や四国の山茶(やまちゃ)が日本の自生だった説もあるが、可能性としては栽培のために持ち込まれた帰化植物である可能性が高い、茶の木(ちゃのき)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。
その茶葉を発酵しないように加熱して作られたものが緑茶。烏龍茶は半ば発酵させてから加熱する半発酵、紅茶は完全に発酵させるもので、いずれも茶の木の葉を使用する。
日本茶は蒸して加熱するのが基本(釜煎りなどもある)。摘んだ茶葉を、発酵させずに蒸して、それを揉捻(じゅうねん)といって揉む作業があり、それを乾燥させた物が荒茶(あらちゃ)。これをブレンドしたり、整えて商品として販売するという流れ。
歴史
特に今日の緑茶のルーツは、臨済宗の開祖で建仁寺を開いた明菴栄西(みょうあんえいさい・ようさい)(1141-1215)に始まり、彼が南宋(1127年北宋金により滅亡翌年-1279南宋元により滅亡)に渡り、禅宗を学んだ際、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」とさえ言われるくらい関わりのあるお茶の知識を、後に『喫茶養生記(きっさようじょうき)』に記したのが始まりとされている。
宋代は茶業が発達し、唐代の蒸した茶をさらに団茶にするという行程から、蒸した茶をそのまま乾燥させるものに変化。栄西はこの製法を日本に持ち帰ったが、その後中国では蒸すのではなく「釜煎り」にする製法が主流になった。
紅茶や烏龍茶などの場合、茶葉は発酵後発酵を止めて加熱乾燥させるが、緑茶は発酵する前に蒸して速やかに乾燥させる。今日では日本茶の代名詞ともされる緑茶は、この時期の南宋の製法が持ち込まれてアレンジされたもの。後に「釜煎り」が主流となった中国のお茶(といっても様々だが)とは大きく性質の違うものとして、今日へと連なることになった。
栄西の喫茶は、禅宗を学びに来た華厳宗の高僧、明恵(みょうえ)(1173-1232)[高山寺(こうさんじ)の実質的な開祖とされる]が栄西から茶の種をもらい、高山寺に撒いたのが「日本最古の茶畑」であるとされる。さらにそれを宇治に撒き広めたことから、宇治は茶の名産として知られるようになる。それが「やぶ北」で知られる静岡県や、埼玉県の狭山茶(かつての商業茶畑の北限)、など各地へ広まると同時に、品種改良が進められていった。
隠元和尚(いんげんおしょう)(1592-1673)というのは中国は福建省の人で、日本に渡った禅宗の僧である。後の黄檗宗(おうばくしゅう)[臨済宗、曹洞宗と共に日本三禅宗のひとつ]の開祖であり、宇治は黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)の開山でもある。
インゲン豆は彼が福建省から持ち込んだものともされているが、揉捻(じゅうねん)[茶葉を揉む行程]したお茶の葉を、急須に入れて、お湯を注いで飲むという、いわゆる煎茶(せんちゃ)の飲み方を伝えたのも彼であった。それは中国でも、彼のふるさとあたりだけに見られる方法だったそうで、これによって日本では煎茶道の開祖とも言われている。
この製法のお茶を宇治の永谷宗円(ながたにそうえん)(1681-1778)[永谷園はその子孫が戦後に作った会社]が改良し広めようと、江戸の山本嘉兵衛(やまもとかへえ)[山本山初代]の茶店と提携を結び、今日へつながる煎茶が広まったらしい。
ただ日本茶が最初から、緑色だった訳でもないらしく、永谷宗円の広めた製法でも、保存状態から茶色になっていたのではないかとされる。それで茶色(ちゃいろ)というのは、緑色では無く、文字通りというか由来というか、茶色を指す言葉にもなっている。お茶の色素と、成分のタンニンが結びあうと、色が固着して落ちにくいので、染織の定番として利用されていた。
その成分
渋み成分であるタンニン、カテキンが味を規定し、覚醒成分として知られるカフェインは、苦み成分としても重要。そこにアミノ酸類(特にテアニンと呼ばれるグルタミン酸の誘導体)。緑茶の場合はビタミンCを中心に各種ビタミンを含んでいる。
入れ方
ひとり3gくらいが基本。少量は多め、大人数は少なめで美味しく抽出。タンニン、テアニンとも高温の方が出るが、高温だとタンニンが勝るので、テアニンのうまみを感じるためには、60度から70度くらい。そのバランスで温度を決める。
深蒸し茶は一分以内、上級煎茶だと60~70度で2,3分掛けて。
得てして唐突ですね
そして謎のままコンテンツ終了。